多すぎる情報よりも確固たる価値観を持ちたい。
言うまでもなく、この世の中は情報が氾濫している。
例えば、『あの言葉の意味なんだっけな…?』
とか思えば、すぐさまgoogleで検索する。
すると、目の前のモニターにその答えが表示される。
いかにも簡単だ。
恐らく早ければ10秒もかからない。
こんな世界に生きていると、どうも
「自分は全ての答えを握っている」
というような錯覚を覚えてしまうことが多々ある。
このブログは一応、自分の生きる意味を自答する趣旨で書いている。
なのでここで自分に問いてみたい。
数多くの「答え」を握って悦に浸る自分。
さて、それで果たして自分の人生はより良いものになっているだろうか。
そして最良の人生を歩んでいると断言できるだろうか。
僕は断言できない。
この眼の前の箱が、僕にもたらしたものは何かあったっけ?
…
「人生というのは選択の連続である」
この話はそこかしこでされている。
全くの真理であるように思う。
選択とは、どれかを選ぶという行為。
人は何かを選ぶたび、何かを捨てねばならない。
今まで何を捨ててきただろう。
ちょっと自分の記憶をたどってみる。
例えば、中学受験とかはどうだっただろう。
あのときの自分はゲームに夢中で、勉強なんかほとんどしなかった。
(まあ、今でもそう変わらないな…)
じゃああのときもし勉強に打ち込むという選択をしたとして。
受験に成功していたら。
まあ、全然違った人生だったんだろうなあとはぼんやり思う。
過去の選択肢は結構冷静に振り返れる。
では未来に関しては?
どんな選択肢を選んでも、正確に先は見通せない。
これから何が起こるのか、明日にならないと分からない。
不安になってしまう。
『僕はどの道を進むべきなのか?』
だから、拠り所が欲しくなる。
自分は合っているのか。
このままでいいのか悪いのか。
大抵そういう流れで情報を取りに行く。
色々検索をして、いっぱい情報を取ってきた。
「答え」をいっぱい持っている状態だ。
すると、また新たな問題が発生する。
「いったいどの答えが最も良いんだ??」
「この答えは果たして本当なのか?」
とか。
おかしい。
僕は答えが知りたかったはず。
そのために。
いっぱい「答え」らしきものを眼の前の箱から集めた。
ところが、その答えたちからまた新たな問題が生まれた。
仕方がないのでその問題に対してまた「答え」を集める。
…
もうこのループから抜け出せない。
結局のところ、得られたものをうまく使えてないんじゃないか。
人生にとってのgoogle検索は、そこまで有効に機能していないように思える。
情報を多く得られることそのものでは自分の人生を好くすることは無理だと思う。
細かなところでは便利にはなったけど。
ただ人生という観点からみるとむしろ邪魔。
決めきれない量の選択肢を悪戯に増やしているだけ。
選択肢の中からどう選択するのか。
これこそが考えなければならないこと。
その選択基準とは何か。
僕は「確固たる価値観をもつこと」だと考えている。
僕は典型的な理系脳だから、絶対的・普遍的な正しさを追い求めてしまう。
でもそれじゃ無理だと思った。
正しいって何なの?
正しい人生って何ですか?
分からない。
分からないから決められない。
でも「僕が正しいと思う人生」なら決められる。
これは悪いと思うからやらない。
これはいいと思うので採用する。
一気に選択肢を絞ることが出来る。
でも僕が正しいと思うことってなんだろう。
正直、今は断片的でしかなくて。
よくわからない。
だから、僕は確固たる価値観を持ちたい。
人生やりたいこともない。
特に生きている意味を見出せない。
こういう感情は誰しも持っていると思う。
僕にかぎらず。
でももし人生を良く生きたいなら。
「自分の信じるもの」を持たなければならない。
とりあえずで、信じるものを持つために僕は生きている。
そのために、いろんな経験をしてみたい。
経験をする。
あるいは他人の経験を追体験してみる。
それで自分の中に新たな価値観が芽生えるかも。
そうすることで、一歩、踏み出せるはず。
とりあえず、これが今の僕の思うところ。
自分の人生をもっと理解したい。
そこから目を背けちゃいけない。